おぎっち

てとしさはきひこく


 今 酔ってるから変なこと書くけど(いつもやけど・・)

 今冬に 自分の知り合いが癌で亡くなったんやけど、

 そんな 年に何度も逢う人ではなかったけど、逢っても違和感の無い 身近なイメージというか存在と言うか、亡くなると言う存在が 一番似合わない人やった・・


 それに2ヶ月前にも普通に何時もの食事会?で逢ってたし、何かのキッカケの時に 何度か一緒に共にする事も 在った・・・・


 突然亡くなった訳ではないけど、淡々としてて 追い込まれてる姿は 他人の私?には 見せる事は無かった。


 ただ その 突然 癌で亡くなった事を知って お通夜に行った時、


 その痩せ細った彼の亡骸を見た時、ドッと疲れた・・・


 そして 帰り際に彼の奥さんに挨拶をされた その姿を観た時 また違った ドッと疲れた、、。


 帰りの車の運転で ずっと その事を考えてた・・・


 人の亡くなった姿は もうそこに 心は無いのよね、、


 あんなに 身近で 違和感の無い 素朴な彼が 心の無い亡骸を見た時、自分が生きてる時間や姿が 永遠でない事を 想い知らされた気がした・・・・。


 また 別れ際に 奥さんに 頭を下げられたとき、


 愛してた 残された人は これから彼に対して たくさんの想いを背負って また現実の整理に追われて 生きていくのかと想うと、

 無責任な言葉や同情なんて 俺の浅はかな感覚では 言葉には 代えて答える事が出来ず、

 ただ、意味の無いゴジャゴジャとした挨拶を してしまって、動揺 しまくって


 反省が ずっと頭から離れなかった・・・・。


 もともと こういった場に許容範囲に余裕の無い俺に まして色々考えてしまうと かえって横暴に成ってしまうので、


 それ以上は 何も行かなかったし 語らなかった・・・。



 またまた 変な話やが、

 フランスに居たとき、

 母親が死ぬ夢を見た。。

 凄い不思議な夢で、亡くなった母親やが眠ってて そして そこの横に俺が居て そして俺がそれを見てる夢やった、、


 不覚と言えば また 誤解が有るが、


 その俺が見てる 亡くなった母親を見てる俺の姿は


 永遠 謝り続けてた、、、


 今 俺は偽善で書いてるのかも知れんけど、

 それでも その夢は ホンマに見た夢やった、、、、



 俺の母親は典型的なAB型で、ドライな人間やけど 妙に純粋な優しさも在って、その白黒感が まさにAB型なんかも知れんけど、、、


 その妙な優しさを 偶に変に 俺に同情して来る事が有る・・・


 しかも 突然 極端に・・・・


 まぁ 他の兄弟にも見せてるらしいから 俺だけや無いらしいけど、、


 突然 優しくなったかと想うと 突然 ドライに成ったり、、ま、典型的なAB型やね。。


 けど 謝り続けてたのは ドライな距離に寄る確執と 近過ぎる同情による謝罪と、、その気持ちとが 色々に入り乱れて、


 夢の世界やから そのまま謝り続けてたのやろうな・・・



 私、自分が死ぬ瞬間って 生まれて 殆どの人が1度しか体験が出来ないので、


 その経験や その気持ちを聞き受け継ぐ事が出来ないけど、、


 最後くらいは 覚せい剤マリファナ 性行為で生まれる脳の分泌物に塗れながら 宗教感の中で


 その液体や淫乱に溺れ、神の領域を感じながら


 死にたいね・・・・



 全然関係ないけど


 旧約聖書(キリスト以前の神への約束)は ユダヤ教

 新約聖書(神への約束を もう一度 改めた キリストが問い始めた誓い?・・)


 コーラン(旧約聖書から新約聖書へ説いた中で その神への約束が問われ続けない事がキッカケに生まれた? 聖書・・)



 エルサレムユダヤ教の聖地

 そして キリストはユダヤ教徒ユダヤ人であって その当時の神の姿に問い質した事に寄って生まれたのが キリスト教


 そして そのユダヤやキリストを また問い質す事に寄って生まれたのが イスラム教、、


 その為、


 ユダヤとキリストとイスラムの聖地は 全く同じエルサレムの中に 存在する・・・・・



 人が生む宗教観とは 結して完成された偉大差では泣く ただ謡われてるのは 人の汚れであったり美の姿で在ったり、過ちの愚かさで在ったり、

 快楽で在ったり・・・・




 生きていくには どうしても必要な感覚を 全ての人が欲してて また苦にしてて・・・・


 その非と偉の狭間を 人間として 問い質す中、、


 どうしても 解決しない辛い姿が 宗教であり 神に摩り替えるのかも 知れん・・・・・


 やからこそ 人が浴しては成らない 瞑想や厳格の中 夢の妄想の中で 生まれる世界が 宗教に成り、

 時に イスラム その前にキリスト その前にユダヤ、 またヒンドゥ、仏陀、スイック、、、



 ただ生まれた 宗教の奇跡なら、


 僅か 数千年の間に ユダヤ、キリスト、イスラム、ヒンドゥ、仏陀、スイック、 突然 同時に 人類の脳に 現れ 残る事は無い・・・・・


 人類と言う種すらも300万年、そしてそれは 地球上の 最も脳を思想に摩り替えた 新し過ぎる新種・・・


 なのに その300万年と言う短い期間の

 わずか数千年で イスラム、ヒンドゥ、キリスト、仏陀ユダヤ


 世界の宗教が 突然生まれたのは 偶然にも 程が有る・・・・



 その偶然には 絶対 何らかのキッカケが 在るに違いない・・・




 確立の問題・・・



 人は 動物の中で 「死」と言う世界観を欲したのは、


 どうしても それが必要な 何等かの 脳の変化が 在って やと想う・・・


 それは 死への解釈に成り 宗教へと繋がったのかも知れんし、、、、



 動物の中で 死を受けいける事に 思想が必要に成った人間は、


 脳の仕組みに 何等かの生への 悔い を 造り過ぎた 一つのバックアップなんかも知れんな・・・・



 生きる為の バックアップが 死への恐怖と受け入れの許容範囲を 宗教が埋める

 的な??


 俺が母親に 夢で謝り続けたのも、


 その悔いへの 宗教観と言う 許容範囲の中 解決しない心、、そして その後に摩り替えられる宗教観


 なのかもな?。。。



 おやすみ♪