おぎっち

どうでも良い話ですが、

25年位前にフランスで走ってた時、お世話に成った寮のクラブは財政難で消滅し、
寮に居ながら、近くのECレンヌと言うクラブで走らせて貰いました。

それに伴い フランスの自転車連盟に登録したので、私のカテゴリーは低くリジョナル2と言うカテゴリーで走りました。

それもアリ、クラブはナショナルカテゴリーをメインにしてたので、サポートカーが無く 移動は自走でレースの会場まで走りに行きました。

ただ、寮に居た管理人のリヨネルさんが「俺が 監督に送って貰えるよう、言ってやるよ」と言い、
自分はアップに成るので 自走でよかったので断ったけど、電話しちゃいました・・。

すると 監督と そこそこ言い合いみたいな感じになり、、無理から その監督に来て貰う様に成ったけど、、

当時、同じ寮に居て 同じクラブで登録してる シマノの栗村さんを「俺は栗村を迎えに行くんだ、お前は その序でだ、」みたいな形に成り、、

フランス語の喋れない自分は、 かなり やっかいな形に成ってました・・。

栗村さんは 2つ上のナショナルのカテゴリーだったので、申し訳なくも 翌々日の ナショナルのレースに出るた為に 監督の自宅に泊まる形になってしまいました。。

その時の移動中の会話で 栗村さんと日本語で会話した時、、
「ヒァーザ.フランス、スピーク.フレンチ!!」と その監督に言われ、、色んな意味で一生忘れられない一言と成りました・・。

よは、「ここはフランスや!!、フランス語喋れ!!」ですね。。

結局、嫌々 レース会場に送られ、、半ば毛嫌いされる形で降ろされ、、
精神的に参ってしまい、、即リタイヤしてしまいました。。

その帰路は自走で帰りましたが、、その道中 「もう レース 辞めよ、、」と トボトボと帰ったのを想い出します・・。

そして、その次のレースで、ナショナルとリジョナルの混走の130キロくらいのラインのレースがあり、(同時スタートで ゼッケンの色で区別してる..)

リヨネルさんが 気を使ったのか、態々 休日なのに レース会場まで連れて行ってくれました。。(一応 自走で行ける と言ったけど・・)

自分的には、このレースを辞めたら レース自体を辞めるつもりやったので、、
レース中 ずっと集団のケツを走ってました。

すると、中盤、レンヌ近辺では珍しく長い登りがアリ、「あ、ここ知ってる、、」と 前に上がり 集団の前方で 登りを終え、、

アタックは決まらんかったけど、、集団が 落着き、、

そこで、再び こそっと アタックしてみました・・

本気で行くと 反応されるので、、ちょっと軽く飛び出て、、徐々に加速して、、振り向いても 誰も来なかったので、、

そっから 必死に踏み出し、、ハッタリでアタックを仕掛けたら、、

後ろから 選手等が追い付いてきて、捕まって「あぁぁ アカンか、」と思ってたら、
前に上がる選手が途切れ、、振り向いたら 誰も居ませんでした。。

「決まった?!」

そっから、そこで集まった12人くらいでローテーションしだし、、タイム差が開き、、

本決まりに成りました。。

(この時点で、あの監督は 私の為にサポートカーを この逃げの集団の後に付ける事に成り、、)

結局、ゴールの街の周回コースに入るまで その逃げが決まり、、

周回コースで、あの監督が 俺にボトルを渡そうとして、「行け行け!!」と 応援してて、、

なんか マグレですけど スカッとしました・・

結局、その周回コースで千切れてしまい、、後ろの集団に掴まったけど、そっから また飛び出し 12位くらいでゴールしました。

ゴール後に リヨネルさんが態々待っててくれて(ホンマは帰るって言ってたけど)、

帰路の車で「オジタ、今日のレースは良かったよ、」と 言ってくれて 凄く嬉しかったのを憶えてます・・

結局、そのレースはナショナルとリジョナル1の混走でしたけど、表彰式は別々で、、

リジョナル1で集団に残ってたのは私だけで、私がリジョナルでは一番早くゴールしたので、、後で 自分が優勝したのを知りました。。

それ以降、リジョナルのレースで3位がやっとでしたけど、トップ集団で残れる事も多く成り、
クラブの選手に声を掛けて貰える事も増えましたね。。

ちなみに、私はリジョナルでも リジョナル2で、ホンマは あのレースには出れなかった筈?ですけど、、

ゴール後に あの監督は「あいつはリジョナル2だよ?!、二つ上の ナショナルの逃げに乗ってたぞ!!」と言ってたのを 栗村さんが言ってました。。

まぁ、そんな事もアリ、、

全然 関係の無い話に飛びますが、、

もうレースで走らなくなった ある日?、知人の鍋会に行った時に、、

世界で旅をしてた エミコさん夫婦に会った時、

エミコさんの旦那さんはオーストラリア人?で、その鍋会で、

「日本人は もっと英語を喋るべきだ、英語は世界共通語だよ、」と 日本人の前で 英語で言ってて、みんなも英語で喋り出し、、

私が ずっと黙ってたら、その旦那さんが 私に「何故 喋らないの?」と言われ、

周りに居た人が、「荻やんは フランスにも居たんだよ」と言ってくれて、

そのフランスの時の話を聞かれ、、自分が フランス語が喋れなく、身振り手振り語で クラブに世話に成った話を、 片言の英語で 話をして、、

その時に あの監督に言われた「ヒァーザ.フランス、スピーク.フレンチ!!」の話をしたら、、

その人、それ以降、何度 会っても、みんなには英語で会話
してるのに、私には 日本語で会話 しようとしてました。。

あの時、私の会話は、「ヒアーザ.ジャパン、スピーク.ジャバニース」(ここは日本や、日本語 喋れ、)と 捉えた?のかな。。

写真は その時のトロフィーです、、一応?こんな私でも 賞状やタテを 何度か貰いましたが、自転車を辞めた時に ほぼ全部 捨てましたけど、、

このトロフィーは 捨てれなかったですね、、色んな意味で・・

どうでも良い話ですが・・

 

 

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